知多木綿の歴史は江戸時代の初期に始まり、その美しい生地は最高級の木綿として江戸に広まったといわれています。
明治時代に開発された豊田式動力織機の導入から、現在まで日本でもっとも長く、織機とともに歴史を歩んできました。
その中で培った多彩な技術と織りを守りながら、知多木綿は今も進化し続けています。
- 1494年~1541年 明応3年~天文10年
- 中国南方原産地の綿花が日本の風土に適した改良品種として、南蛮貿易によって東海地方にも伝わり、綿織物が発祥しました。
- 1600年~ 江戸時代/慶長年間
- 農家の副業として発祥した知多木綿。約400年前(1600年頃)に、未晒の生白木綿として生産したものが伊勢で晒加工され「伊勢晒」や「松坂晒」として江戸へ送られ始めたとの記録があります。
- 未晒(みさらし)…晒加工をする前の生地
生白(きじろ)…生成りがかった木綿本来の色
- 1781年~1789年 江戸時代/天明年間
- 当時先進の織物産地であった伊勢・松阪で修業した職人 中島七右衛門が、晒加工の技術を知多地域に伝えました。今までにない白さと品質の高さを実現した綿布は尾張藩の奨励を受け特産品とされ、最も名の通った高級綿織物として江戸で広まりました。
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江戸時代の帳簿取引などが残されています。(知多市歴史民俗博物館所蔵)
- 1874年 明治7年
- 京都の西陣に、ジャカード機とともに、英国で発明された手機(てばた)のバッタン機(英名 Batten)が輸入されました。バッタン機が知多地域にも広く普及したことにより、生産能力が飛躍的に増加しました。
- 1896年~1998年 明治29年~31年
- 愛知県知多郡岡田村で織機の研究をしていた豊田佐吉氏(現トヨタグループの創始者)が開発した「豊田式木鉄混製動力織機」を導入した「乙川綿布合資会社」が現乙川市高良町で設立され、翌年に初めて製織した木綿が出荷されました。 知多郡乙川村の庄屋である石川藤八氏の資金援助のもと行われたこれらの開発によって、木綿生産の工場化が進み、知多半島全域が木綿の一大産地として発展しました。 それまで一般的だった英国のバッタン機で織られた製品とは比べものにならないほどの高品質な仕上がりの知多木綿は、東京の三井物産本社の検査係の目に留まり一気に国内外へと広がりを見せました。
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乙川綿布合資会社
石川藤八(半田郷土史研究会所蔵)
- 1902年~ 明治35年
- 知多郡白木綿同業組合が発足し、製造業者を含む知多産地全体で一体化した品質の統一や分類が行われるようになりました。原糸の品質や工程をチェックし品質悪化を未然に防ぐよう罰則規定も設けられ、厳格な知多木綿の出荷規則が定められました。現在は出荷規則はありませんが当時の検査の名残りで検反者の名前が反物の末尾に書かれています。
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東京織物組合が定めていた知多晒の検査基準は最、別、稀の3段制。
写真は頭(最上級)物当時の木綿問屋が使用していた畳紙(たとうし)。
(知多市歴史民俗資料館所蔵)
- 1927年~1937年 昭和2年~12年
- 知多産地の有力者(山田佐一、安藤梅吉他)による大規模な設備増設によって、織機の保有台数が全国一の規模にまで発展し、ますます生産量が上がりました。
- 1938年~ 昭和13年~
- 第二次世界大戦が始まり、経済統制によって木綿の生産は一時停滞を余儀なくされました。しかし戦後まもなく復興を遂げ、大規模な紡績工場から個人経営の機屋まで知多地域に続々と誕生し、ピーク時には700事業所にもなりました。
化学繊維の登場、嗜好の多様化により知多木綿を取り巻く状況は変化していますが、日本の伝統文化に欠かすことのできない小幅生地を生産しつづけることで織を守る役割を担いながら、これまで培ってきた技術力を生かした高品質で多彩な製品を世に送り出し、知多木綿は今もなお進化し続けています。